【神の恵みに満ちた歩みを】 (詩篇65:9〜13)
                                             牧師 熊谷徹
=====================================

 詩篇65篇は「神の恵み」を歌った美しい詩である。その11節で詩人はこう
歌う;「あなたはその年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡に
は、あぶらがしたたっています」(SKY)。

 「あなたの通られた跡には、あぶらがしたたっています」の直訳は、「あ
なたの道は豊かさをしたたらせる」である。これは、農夫が収穫した穀物を
荷車に積んで行く時、余りの豊作(豊かさ)のために、積んでいた穀物が荷
車からこぼれ落ちて、道々(原文は複数)に転々とこぼれ落ちている様子を
描いたものだと思われる。そのように、神は有り余る程の「豊かな」収穫を
与え、祝福して下さると詩人は歌うのである。

 また、「神は御恵みの冠をかぶせらせて下さる」と詩人は歌う。これは、
豊かな収穫、大豊作の約束である。「冠」は栄光と誉れのしるし(詩8:5)、
勝利のしるし、そして、祝福のしるしなのである。この年、神は私達にも
「御恵みの冠」を用意して下さっている。そのことを信じて歩んで行こう。

 神が用意して下さる「冠」で思い起こすのは、晩年のパウロの言葉である。
パウロはこう言った;「今や、義の冠が私を待っているばかりである。かの
日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」と(Uテ
モテ4:8)。パウロが、やがて閉じようとする地上の人生の彼方に見つめてい
たのは、神が与えて下さる「義の冠」であった。それは、朽ちることのなし
永遠の命の冠であり、栄光と誉れの冠である。「かの日には」とパウロは言
った。いつか終末的「かの日」が来る。誰の人生にも「かの日」は来る。そ
の日まで、「義の冠を授けて下さる」主を見上げつつ、地上の人生を一歩一
歩大切に踏みしめて歩んでゆこうではないか。

 「神は御恵みをもってその年に冠をかぶせて下さる」(TK)と御言葉は告
げる。私達にとっての「その年」とは、20O3年という「この年」である。
皆さんにとって「この年」が、主の恵みに満ちた年でありますように!
                    (2003年1月5日礼拝説教より)