【戦争の罪悪性−終戦の日に思う−】
                            牧師 熊谷徹
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 夏、八月である。今年もまた広島・長崎の原爆記念日と終戦の日がやって
来た。この日が来る度に、もう二度とあのような戦争をしてはならない、と
強く思わされる。

 かって日本が軍国主義の道をひた走りに走っていた時、キリスト者で東大
り教授であった矢内原忠雄は、戦争の罪悪性について幾つもの理由をあげて戦
争に反対した。第一に、戦争は相手に対する憎悪から発するものであるが故
に罪悪であると矢内原は言う。 「人を憎み、敵を憎む心は、ほんとうに冷た
い破壊的なものであります」。第二に、戦争は虚偽を行うが故に罪悪である。
「人を殺すこと、嘘を言うこと、すべてが戦争の名のもとに許され、奨励さ
れます」。第三に、戦争は愛と対立するが故に罪悪である。「戦争は無慈悲
です。戦争を全体として見れば他人を犠牲にしてはばかりません。・・・敵国
だけではありません。自分の国の兵士や兵士の家族にも多くの犠牲を払わせる
のであります」と矢内原は言う。第四に、戦争は残酷であるが故に罪悪であ
る。「平生ならば敢えてすることができないような酷いことを戦争ではしま
す」。第五に、戦争は正義を踏みにじるが故に罪悪である。「戦争は正義感
を不純ならしめます。戦争になれば誰しも勝つことが最上の願いです。そし
て自分の国の利益を最上だと思うのです」。自国の利益に反するなら、たと
え真理であれ正義であれ、それは無視され、時には弾圧され圧殺される。し
かし、「真の正義感は損得の打算を超越したものでなければならない」ので
ある(岩波書店『矢内原忠雄全集』第16巻「平和の君」参照)。

 だが、戦争の罪悪性の最たるものは、子供を初めとする多くの人を無差別
に殺戮(さつりく)する点にある。その最も悲しき歴史の証人が「ヒロシマ、
ナガサキ」なのである。今年の広島平和宣言に於て、広島市長は、アメリカ
大統領と北朝鮮総書記に向かい、「広島を訪れよ!」と訴えた。戦争の罪悪
性に目覚めよ、核兵器使用の悪魔性を直視せよ、との訴えである。

 人間が罪人である限り、戦争を根絶することは不可能に近い。だが、決し
てあきらめてはいけないのである。キリストはこう言われる;「平和を作る
者は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)

             −茅ヶ崎同盟教会月報 2003.8月号より−