主を待ち望む者は力を得る
 
                                                                                                                     牧師 山村諭
 
 「しかし,主を待ち望む者は新しく力を得,鷲のように,翼を広げて上る
ことができる。走っても力衰えず,歩いても疲れない。」
イザヤ40:31


疲れ,力尽き, つまずき倒れ
 イスラエルの民は神から見放されたような思いを抱いていました。「私の道は主に隠れ,私の訴えは
私の神に見過ごされている」(イザヤ40:27)というつぶやきがありました。置かれた困難な状況,直
面する理不尽な出来事,何をやってもうまくいかない徒労感。そういうものに取り囲まれると,神を信
じているのに,神は私たちを気にかけてくださらないのか,神は本当におられるのかという疑いの思い
が湧いてきます。そういう思いに囚われる時,人は自分の力に頼るしかないと思うかもしれません。結
局信じられるのは自分だけと,神を諦める思いに駆られるかもしれません。信頼が揺らぎ,期待が失わ
れ,やる気が削がれる時,私たちは落胆し,力を落とし,疑いや戸惑いに取り囲まれて,疲れ果ててし
まいます。自分の力に頼って生きても,息切れして,力尽き,つまずき倒れでしまうでしょう。

しかし,主を待ち望む者口逝しく力を得
 しかし預言者は「あなたは知らないのか」と問いかけます。r主は永遠の神,地の果てまで創造した
方。疲れることなく,弱ることなく,その英知は測りしれない」(イザヤ40:28)と。計り知れない知
恵をもってこの世界に関わりをもつ神であることを忘れるなと問いかけます。私たちの思いをはるかに
超えた知恵をもって世界に関わり,私たちと共にあり,力を注いでくださる神です。この神は「主を待
ち望む者は新しく力を得」ると,預言者を通して約束されました。主なる神は,待ち望む者に新しい力
を注いで,新しく生かしてくださいます。
 「主を待ち望む」ことは,「望みを抱いて待つ」ことです。そこには主への確かな信頼と期待があり
ます。目に見える状況は,神に見過ごされているかのように思える時でも,主を待ち望むところに信仰
があります。アブラハムは「多くの国民の父」となるとの神の約束を信じ抜きました。子どもが与えら
れず100歳を過ぎた身体でしたが,神の約東を疑わず「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ
4:18)続けました。神はその信仰を義と認め,彼を通して全世界を祝福する救いの御業を実現されまし
た。「主を待ち望む者」は忍耐深く歩みます。自分が望む通りに事が運ばなくても,望みを失わず,喜
びと平安をいただいて希望を保って歩みます。そのように生かす力が,待ち望む者に注がれ続けます。

鷲のように翼をを広げて上る
 主が注ぐ新しい力は「鷲のように,翼を広げて上ること」を可能にする力です。翼をパタパタと動か
すことなく,ただ翼を広げて上昇気流によって大空高く舞い上がる姿が思い浮かびます。自力では上り
得ないところにまで,神の力によって導かれるのです。それは聖霊なる神の力ある働きだと言えます。

走っても力衰えず,歩いても疲れない
 主に期待し望み続ける歩みこそ,力衰えず,疲れない歩みです。教会創立60周年を迎える私たちの教
会が,主の大いなる御業に期待し続け,神の国の完成に仕えることができるよう,忍耐と励ましの神が,
聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように(ローマ15:5,13)。